今の世の中、電車の中の過ごし方で圧倒的に目だつのは、やはりスマホですね。車内の80%くらいはこれです。
ただ、最近意外に多いように思うのが、文庫を読んでいる人。まあ、10%にも満たないと思いますが、スマホを持っていないオレとしては、座席の両脇の人が文庫を読んでいたりすると、ついうれしくなって自分も文庫を取り出し、スマホ派に対しこれみよがしに文庫派健在をアピールをすることにやぶさかではありません(←どんな文章なのか)。
まあ、スマホ派の人々はそんなこた気にしていないでしょうけど、もしも神様がオレにほんの少しの勇気を与えてくれるなら「やっぱり電車内は文庫ですよねー」と両脇の人に微笑みかけてもみたいもの。一種の変質者ですね。
そして、ここ数年、圧倒的に少ないのは雑誌派です。
たとえば『FOCUS』全盛当時。発売日には、車内で複数の人が鉄道轢死写真をむさぼり見ているなんてこともしょっちゅうでした。2000年代に入っても、サッカー専門誌やフリーペーパーの『R25』なんかを読んでいる人をよく見かけました。
今は『週刊文春』や『薔薇族』でさえ、読んでる人をあまり見かけません。
新聞を広げている人も少ないですし、これは大きさに関係があったりもするんでしょうか。なんか、すべてがスマホ基準になっていたりして。もし今、電車の中で『宝島』の前身であるどでかい『WonderLand』創刊号なんか広げている人がいたら、子どもたちなんかきっと珍しがって寄ってくるだろうからなー。
であれば、いっそスマホサイズの雑誌を出すというのはいかがでしょう。
しかし一方で、すべてがスマホ標準になってしまった場合、従来の雑誌や新聞のようにひとつのページや紙面にごちゃごちゃと様々な記事が載っている、そのすべてをぼんやり意識しながら読みたい記事を読むという、人類の生存に必要な能力が失われてしまうのではと思ったりもします。
面白いことというのは、けっこう視界の片隅で見つかったりするもんですよね。つまり、スマホの世界には意外な出会いがない。まあ、持っていないオレが言うのもナニですが、『宝島』でもいろいろな出会いがあったものです。
つい先日も、1978年12月号の輸入レコード&ショップス特集を泣きながら読んでいて、初めて知った70年代のシンガーソングライター、タウンズ・ヴァン・ザントとロッド・テイラーのアルバムを購入してしまいました。
日本政府は、道徳や愛国心を教えるより、昔ながらの雑誌・新聞を読む教科を作ったらどうでしょうかね。